和装履物の歴史

仕事の道具からお洒落アイテムへ

浅草和装履物店 辻屋本店 四代目 富田里枝です。

日本人は古来より台に付けた鼻緒で足を支える履物で足を守ってきました。
鼻緒を指で挟むことにより力が入って足元が安定するため、その機能を活かしてさまざまな「道具としての履物」が作られ、仕事の場で使われました。
たとえば稲作が始まった弥生時代にはすでに、田んぼでの労働のために「田下駄」が使われていたことが、静岡県登呂遺跡などから多数出土していることからわかっています。

古代には一部の貴族階級を除き、一般庶民は素足で生活していましたが、平安時代になると簡単なわらじ、草履など鼻緒付きの履物が発達していきます。

武家社会が中心になる鎌倉時代には庶民にも履物が普及、武士は足裏の半分ほどの長さしかない「足半草履」を履きました。
室町時代には足袋を履く習慣も広まっていきます。

江戸時代に入り、町人文化の隆盛とともに草履、下駄などはめざましい発展を遂げます。
竹皮を編んで底裏に革を貼った草履(雪駄)は、目の詰んだ高級なものは南部地方で作られたため「南部表」と呼ばれるようになります。

下駄も目の通った桐台、漆塗りや蒔絵を施した台、畳表付きの台、革製の鼻緒など、贅沢なお洒落のひとつとして洗練されていきます。
高く美しく、その究極がこの花魁下駄かもしれません。

草履や下駄の基本的な形、素材は江戸時代から現在にいたるまで、ほとんど変わっていません。
和服と同じように日本の気候風土に合うようにつくられているからでしょう。

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